映画感想「血斗のジャンゴ」

1967年のマカロニ・ウエスタン。セルジオ・ソリーマ監督作品。
肺の病気の療養のため、東部からテキサスに来ていたフレッチャー教授は、そこで捕らえられたばっかりの無法者であるボー・ベネットと出会う。お人好しな性格のフレッチャーは、水が欲しいというベネットにちょっと情けをかけたばっかりに人質に取られ、彼の脱走に巻き込まれてしまう。ボーは脱走のときに脇腹を撃たれ、逃げおおせたものの気を失う。フレッチャーにとっては逃げるチャンスだが、彼はボーを放っておかず、負傷したベネットを助ける選択を取る。
その後、傷が回復したベネットはフレッチャーを解放するのだが、結局彼はボーと行動をともにすることを選ぶ。かたや知識人、かたや無法者という対照的な二人だが、出会いともに過ごすことで、やがてその生き方、思想に変化が生じていく。

お尋ね者のボー・ベネットと、東部から病の療養で来た紳士、フレッチャー教授。

あらすじだけでこれは自分好みだと確信しながら、ソフトが高値で手が出づらかった作品。観た率直な感想としては、手を出してよかった。
まず、開始五分も経たずに、フレッチャーがどんな人間かを説明する手際の良さに驚く。身なりのよい格好で利発そうな生徒たちを相手に別れの挨拶を述べ、見送りに来た同僚に「優秀なのに自信がない」と冗談めかして言われ、好意を寄せているであろう女性に何もいうことができない。
ベネットと出会った最初の頃は、銃に触ったこともない臆病で気弱なインテリ紳士なのだが、このフレッチャーを演じるのは「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」で冷酷な悪役を演じている俳優であるジャン・マリア・ヴォロンテ。そして無法者のボー・ベネットをトーマス・ミリアンが演じる。やたらとさらっさらなおかっぱヘアが印象的。

銃を手にとるようベネットにいわれ、泣きそうな様子で従うフレッチャー教授。
「触ったこともない」「危険な道具だ」とか言いながら、覚束ない様子で構える。

邦題に「~のジャンゴ」とあるが、そのような名前の人物は出てこない。原題は「Faccia a Faccia」。「顔と顔」という意味であるが、それがどういうことかはすぐに察することができる。そして、「血斗」という言葉から派手で外連味あるアクションなどが起こりそうに思えなくもないが、内容はそういったものとは逆で、キャラクターの心情の変化とストーリーに重点を置いた、かなり硬派な内容なのだ。

フレッチャーにとって、ベネットは単なるお尋ね者というだけではない。ベネットは銃の腕も達者で、自分が生きるために躊躇なく人を殺す。ほとんど獣のような生き方だが、フレッチャーはその本能的な行動力や暴力性こそ、自分に足らないものだと考え、彼に羨望と興味を感じているように取れる。
最初の頃は、拳銃を手に取りしげしげと眺めながら「これを持つことで気が大きくなる理由がわかった気がする」なんてつぶやいているのだが、そこから徐々に自分の欲望に忠実に従うことに目覚め、それを実行することで自信をつけていく。そしてその自信は暴力に対する忌避の垣根を取り払い、やがては己の知識と掛け合わせてそれを振るうことを覚える。この心理の移り変わりが、なかなかしっかり描かれているのだ。
反対に、フレッチャーと出会うことで「俺さえよければほかはどうなろうと知ったこっちゃない」という考えだったベネットの心にも変化が生じる。自分に情けをかけた人物であり、どう見ても住む世界が違うフレッチャーに、最初は「あんたは東部に帰れ」とすすめる。これがきっかけなのか、徐々に彼は自分や仲間以外の「他者」の存在について考えるようになる。
知的で教養人だった男が暴力の味をしめ、暴力を頼りに生きてきた男が良心に目覚める。この逆転が、間違いなくこの映画の最大の肝だろう。また、そうした人物描写に重きを置きながら、ピンカートン探偵社との攻防や、集団で銀行を襲う際のヒリヒリした緊張感など、目を引くアクションシーンなどもある。

人間の内面を描くために荒唐無稽さを排除しており、しっかりとしたドラマになった、マカロニ・ウエスタンの隠れた良作。ピンカートン探偵社のスパイと、暴力に目覚めたフレッチャー教授の会話が印象的。

「暴力に染まったあんたは……結局ただのけだものだ!」
「一人だと無法者、百人で一味、十万人いれば軍隊だ。無法者が殺せば罪だが、軍隊のそれは歴史になる」

画像:© 1967 Alberto Grimaldi Productions