映画感想「暁のガンマン」

1968年のマカロニ・ウエスタン。主演ジュリアーノ・ジェンマ、相棒役にマリオ・アドルフ。ジュリオ・ペトローニ監督作品。本作はジェンマ自身のアイデアを元に制作されたとのこと。音楽はマカロニではおなじみエンニオ・モリコーネ(OPクレジットにはブルーノ・ニコライの名前もある)。

冒頭、荒野を走る馬車がならず者たちに襲われる。馬車の乗客は無残にも殺されるが、ならず者たちが狙っていた人物(誰なのか大体察しはつくだろうが)はその中にいなかった。彼らが去った後に、ジェンマ演じる主役のティムが通りかかり、犠牲者のために墓を掘る。その様子を傍から見ていた大男ハリーが、採掘用のスコップを手にティムを手伝う。その場では特に言葉も交わさず別れた二人だが、町の酒場で偶然再会する。「銃は怖いから持たない」というティムをハリーは気に入り、昼間のこともあってか二人は親しくなる。

冒頭、見知らぬ犠牲者のために墓を掘る、たまたま別々に通りがかった二人。
二人の人柄がうかがえ、モリコーネの音楽が沁みるシーン。

ハリーが鉱山で半年働いて稼いだ金がある、と自慢すると、ティムは「銀行に預けたほうがいい」と親切そうにすすめてきた。言われるままにハリーは寂れた町の寂れた銀行に金を預けるも、実は町は廃墟、銀行員や町人もティムが雇ったエキストラ。ティムは詐欺師だったのである。怒ったハリーはティムを見つけだし問い詰めるが、彼は金を見世物ショーで稼ぐ人妻のために使い切った後だった。
「親父から継いだ牧場を立て直すための金だったのに!」とハリーが喚く。悪いと思ったティムは「金を稼ぐあてがある」と言って弁償することを約束し、疑りながらもハリーは彼についていくのだった……というのが序盤の流れ。

本作は、切れ者だが女好きでお調子者のティムと、力は強いがお人好しの大男ハリーのコンビが織り成すコメディタッチの作品となっている。鉱夫が町の酒場に雪崩れ込むシーンなどはもはや歌劇かファンタジーかのようで、この辺りの演出からコメディなんだろうなあとは見当をつけることができるのだが、冒頭の襲撃シーンをはじめ、バイオレンスなシーンは容赦も笑いも一切ないのでかなりちぐはぐな印象。まあマカロニ作品につきものといえばそうなのだろうが、悪役の顔つきや言動がいかにもというよりは普通に怖く、キャラクターとしてなかなかよかったのでなんか勿体ない気がする。

悪役ロジャー。酒場で「ナイフの切れ味が悪いから取り替えろ」と言ったら適当にあしらわれたので
ウェイトレスを切りつけ「なるほど良い切れ味だ」と笑う危ないヤツ。

さて、「あてがある」というティムの言葉を信じ、なにか大仕事をやる流れになるのだろうかと思った方がいたら、ハリー同様まんまと彼に騙されたことになる。珍道中といえば聞こえは良いが、この後はティムが気ままにチンケな詐欺を働き、女に色目を使い、ハリーはそれに振り回される……という流れが大半を占める。
一応の目的は「金稼ぎ」になるのだろうが、シーンの一つ一つが積み重なって目的へ近づいていくという要素もあまり感じられず、個々のシーンもそこまで面白いとも感じなかったので、ここで満足できないと必然性に疑問が残る。金稼ぎと見せかけてただ人妻といちゃいちゃしたいだけだったときは流石にいい加減にしろと思った(笑)。目を瞠るようなガンプレイや珍妙な武器でも出てくればまだましなのだが、前述したティムの銃を持たない設定や、コミカル路線などからも予想できる通り、そもそもアクション自体が少ない。まあジェンマといえばアクションなので、ティムが銃を手に取る場面も一応ある。シチュエーションに限っていえば銃を取る流れは自然だし、なんだかんだで銃さばきはかっこいいのだが、全体的にはもうひと押しかふた押し欲しいところだった。

というわけで、凸凹コンビの行き当りばったりなコメディ・ウエスタン。全体的に作りが粗いもののやりたいことは伝わってくる。目的もなく相棒どころか視聴者すら騙し振り回すジェンマにノれるか次第なところがある作品と感じた。銃を持たないガンマン(途中までだけど)というのは新鮮だったので、その口の旨さを使って悪者を出し抜くといった展開が欲しかったかも。
モリコーネらしい哀愁ある口笛のメインテーマの使い方が独特というか、どんなシーンでも良い感じに仕上がる魔法の調味料のようで、あらためてその凄さを思い知った(ちなみにCD化されていないレアな楽曲らしい)。

画像:© 1968 Compass Film, SRL -Rome- Itary