映画感想「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」

1983年公開、アメリカ・イタリア合作のギャング映画。ロバート・デ・ニーロ主演。監督はマカロニ・ウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネで、彼の遺作となる作品。本作は小説家ハリー・グレイが書いた自伝的小説「The Hoods」を元に、レオーネが自らのアメリカに対する憧れを込めて映画化したものとのこと。主人公のユダヤ人ギャング、ヌードルスの人生を通して、禁酒法時代から1960年代までの「古き良きアメリカ」を描いている。音楽はエンニオ・モリコーネ。

映画は1933年のニューヨーク、悪漢たちが主人公のヌードルスを探し回っているところから始まる。ここはまさにレオーネ節で、薄暗い部屋に入ってきた女性が部屋の照明をつけると、ベッドに人の形の銃痕ができており、背後で部屋にいた悪漢が写真立てを叩き割って気づかせる……というもの。セリフのない、役者の仕草と物音だけのシーンに、緊張感は否が応でも高まる。本当に、この「冒頭悪役」の迫力の描き方にかけてはレオーネはすごいと思う。
ヌードルスの居場所を知らないその女性は無慈悲にも射殺され、次のシーンではモーという別の男性が拷問にかけられていた。血まみれになったモーは、ヌードルスがチャイナタウンにいると吐いてしまう。悪漢たちがそこに向かう一方、チャイナタウンで水タバコを吸ってぐったりしていたヌードルスは店の中国人に起こされ、脱出するよう促される。
難を逃れた彼はモーのいる店へ戻ると、残っていた悪漢のひとりを射殺。モーから鍵を受け取ったヌードルスは駅ヘ向かいロッカーを開けてスーツケースを取り出すが、中身を見てそこで呆然と立ち尽くす。放心状態のまま切符を買い、ふと駅の壁画を見て立ち止まると、ビートルズの「イエスタデイ」がかかり、気がつくと彼は老人になっていた。

と、最初は状況説明もほとんどないまま進んでいくのだが、実は前述のシーンの最後で、時代が一気に1960年代後半になっているのだ。
冒頭で描かれていた逃亡シーンは彼の過去に起こった出来事で、老人になってこの駅にやってきたところからが映画の中での現代、ということがわかる。あの後も逃亡を続けたヌードルスは、30年以上ぶりにこの町に戻ってきていた。映画は、町に戻ってきた彼がかつて過ごした場所や友人を訪ねながら過去を振り返るような構成になっており、貧しい「少年時代」とギャングとして暗躍する「青年時代」、そして年老いた「現代」と3つの時代を行き来する。青年時代がメインだが、少年時代もそれなりにボリュームがある。
それもそのはずで、この作品は3時間を超える大作なのだ。映画公開時、その長尺に加えて時系列が交差する構成は事前に見た批評家から受けが悪く、なんと当初は制作会社側が勝手に時系列を整理したりカットしたりして公開したらしい。自分が観たものは完全版と呼ばれる229分(3時間49分)だが、さらに251分(4時間11分)のエクステンデッド版が存在する。どれもなかなか観るのに覚悟がいる長さである。

本作の主人公ヌードルスは、それまでレオーネが描いてきたマカロニ・ヒーローの「名無し」や「ハーモニカ」と違い、しっかりと生い立ちが描かれている。そのため前述の主人公たちのように超然とはしておらず、少年時代、青年時代と、何をやるにも危うさがつきまとっている。
少年時代の彼は貧しい生活を強いられ、同じ境遇のユダヤ人仲間たちと不良グループを作っており、悪い大人から報酬をもらう形でスリを働くなど悪さをしている。貧困、汚職警官、敵対する年上の不良グループなど、環境は最悪だが、それを跳ね除けるたくましさや後に親友となるマックスとの出会い、仲間たちの友情と結束などは見ていて引き込まれる。

大金を手に入れ、みすぼらしい格好から一転、背伸びして着飾ったヌードルスと仲間たち。
不良とはいえ、全員あどけない子どもたちばかり。

青年時代への布石となるシーンもよいが、個人的には、特に貧しい生活シーンが印象的だった。映画のヒロインともいえるデボラが、バレエの練習をしているところをヌードルスが覗くシーンや、彼女が彼を部屋に招き、(おそらくはユダヤの)聖書の文句をそらで読み上げるのをぽーっとした顔で見つめるところなど、思春期の初恋だけでなく、同じ子どもでも貧困や教養の差があるなど、色々なものがないまぜになっており、このパート全体が生き生きとしているように感じた。
一番好きなのは、年上の売春少女のところになけなしの金でクリームケーキを買って持っていった主人公の仲間のエピソード。下心全開な様子が微笑ましいのだが、結局自分ですら食べたことのないご馳走を前にして……という、貧しさや切なさの詰まったシーンですごく良かった。

少年時代が終わると、次はわけあって離れ離れになっていたヌードルスが、マックスと再会する青年時代に移行する。禁酒法真っ只中の時代、ヌードルスは再会した仲間たちとともに、ギャングの世界で成り上がっていくのだが、映画のメインともいえるこのパートは、映画における現代と交互に描かれていく。
実は現代において老いたヌードルスが戻ってきたのには理由があり、青年時代にそのヒントがあるという構造になっているのだ。このパートはとにかく暴力表現と性表現が多く、かっこ良さや悲哀といったギャングの良いイメージとはまた違った、欲に塗れた男たちの姿が非常に露悪的で生々しく描かれる。そうした描写の中に、仲間たちとの友情やデボラとの関係など人間らしい部分が込められているものだから、清濁併せ呑む気持ちにならないと登場人物に共感はしづらいのではないかと思った(それでも辟易するところはある)。

仲間たちと再会し、歓迎と抱擁を受けるヌードルス。
闇酒場の軽快な音楽も相まって非常に良いシーン。

そのようにして駆け抜けた青年時代に引き起こした事柄の結果のいくつかを、現代の老ヌードルスが追っていくというのが作品の大筋である。こうして考えると、レオーネは物語を一場面、一つの出来事でなく、一人の人生や一つの時代として捉えたんじゃないかと思う。叙事詩的という形容や、長尺になるのもうなずける。

というわけで、レオーネ最後の作品らしい(時間的な意味で)大作。過激な表現、難解な物語(特に最後)など、万人には進めづらいが、印象に残るシーンも多い。個人的には少年時代がよかった。
また、随所でかかるエンニオ・モリコーネの音楽が素晴らしく、特に音色が印象的な子供時代のテーマ(劇中で持っていた楽器からするとパンフルートだろうか)をはじめ、この長尺映画全体を支えシーンを盛り上げており、この作品自体が音楽によって助けられているところは多分にある気がする。

© 1983 Embassy International Pictures

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