映画感想「ミスター・ノーボディ」

1973年のマカロニ・ウエスタン。
「怒りの荒野」のトニーノ・ヴァレリ監督作品。
そして原案は「荒野の用心棒」「ウエスタン」のセルジオ・レオーネ。ヴァレリはレオーネの元で助監督を務めており、二人はいわば師弟にあたる。また、音楽はマカロニ・ウエスタンではおなじみエンニオ・モリコーネが担当している。

冒頭、馬でやってきた3人の男がある床屋に押し入り、一言も言葉を発さぬままそこにいた店主とその子供を縛り上げる。1人は床屋になりすまし、残りは外で牛の乳搾りや馬の世話をしながら、誰かがやってくるのを待つ……。
3人の悪漢、無言、待ち伏せ。「ウエスタン」(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト)を彷彿とさせる展開と演出。さすがヴァレリ、レオーネの弟子! といいたいところが、Wikipediaによるとこのアクションシーンはセルジオ・レオーネ本人の演出なんだとか(ヴァレリは否定している)。

この映画の主役は老ガンマン、ジャック・ボーレガード。配役は「ウエスタン」で悪漢フランクを演じたヘンリー・フォンダである。
かつては銃で成り上がった凄腕ガンマンのボーレガードだが、今は自分を殺して名を上げようと追いかけてくる男たちにうんざりしており、静かに引退をしようとヨーロッパ行きを考えている。
そして、ボーレガードにつきまとう謎の青年ノーボディはテレンス・ヒルが演じる。ボーレガードに近づいたノーボディは、「あんたは英雄だ。だが俺はあんたを『伝説』にしたい」と不敵に笑いながら言う。
1人で複数人を倒した逸話を数々持つボーレガード。だが、ノーボディの目的は、「ボーレガード1人vs150人のワイルド・バンチ強盗団」という世紀のとんでもマッチを実現させることだった。

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「ミスター・ノーボディ」より、ボーレガードの逸話を本人の前で語るノーボディ。
©1973 Lamar Universal Corporation

この映画、乱暴にいってしまえば、物語的にはノーボディが宣言した通りのことが起こり、そこまでの道のりにあまり紆余曲折というか起伏がない。だがシーンの諸々に見どころや示唆に富むポイントがある、展開以外の部分に「物語」がある映画だと感じた。

まず、ノーボディのキャラクター。名前を聞かれても「ノーボディ」(誰でもない)とだけ答えるこの男は、明らかにレオーネが散々モチーフとして使った「名無し」的立ち位置であるが、今までの名無したちと比べても異質だと感じた。
彼のテーマソングは非常に明るく、ダークヒーローさのかけらもない。その振る舞いは掴みどころがなく、飄々という表現を超えて無邪気ともいえる。いたずら好きで、ボーレガードに銃を向けられても怯えるどころか身構える素振りすら見せない。もっとも顕著なのは、彼のアクションで挟み込まれる早回し(コマ落とし)で、人間の限界を超えた拳銃の早抜きや、相手より先に相手の拳銃を取ってさらに顔にビンタをくらわすなどやりたい放題。ノーボディのアクションシーンは基本的にコミカルで、西部劇の世界にアラレちゃんやバックス・バニーがいるがごとくである(チョイスが古いな!)。
そんないわゆる「チートキャラ」なノーボディだが、ボーレガードに対して実力行使はせず、自分の目論見通りになるように仕向けるだけである。ノーボディが単独で活躍するシーンはもちろんあるのだが、ボーレガード目線で物語を見ていくと実在しているのかも怪しい男であり、「ウエスタン」のハーモニカよりもいっそう非人間的、超自然的存在に描かれていると感じた。彼はよく馬の鞍を背中に担いでいるのだが、それが天使の羽のようなシルエットになる(Blu-rayジャケットなどでは、さらに煙草のけむりで頭に輪っかが描かれている)。

そして、1899年という時代設定もまたいい。ガンマンが活躍したいわゆる西部開拓時代は終わっており、劇中では電信を受け取るシーンがあったり、列車の線路と並んで電信柱が立っていたりする。一部の町並みもかなり近代的でお洒落。行き場をなくしたガンマンが集まってワイルド・バンチのような集団が生まれたのもうなずける。そしてそれは、引退を考えているボーレガードの境遇と重なる。
さらに、映画が作られた1970年代はマカロニ・ウエスタンブームも下火になってきており、初期のダークヒーロー路線は鳴りを潜め、今回のノーボディのようなコミカル路線が多少受けている程度だったとか(自分はあまりコミカル系は観ていない)。つまり、ブームが終わりかけの頃に撮られた、ガンマンの時代が終わりかけた頃の、人生が終わりかけた男の映画ということになる。そんな中でボーレガードを伝説にし、さらに自らも名を残そうとするノーボディの存在は、消えゆく火を受け継ぐようにも取れる。だからこそ、クライマックスでのボーレガードの決断は多層的な意味で正しいのだと感じた。

劇中、ワイルド・バンチは常に集団で現れ、その中の一人ひとりが個別のキャラクターとして描かれることはない。砂煙を巻き上げて画面を埋め尽くす様子は圧巻であり、集団というか一個の生き物のように見える。ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を引用したテーマソングは勇ましくてカッコイイのだが、有名なメロディ部分だけフニャフニャした印象。ワルキューレ(戦死者の運び手)が示すとおり、こちらもノーボディ同様非人間的である。
ワイルド・バンチのシーンは、実際にあれだけの人を集めて撮ったんだろうなあと思うと感慨深い。特にクライマックスの俯瞰ショット、荒野の奥から砂煙とともにやってくる彼らと、手前の線路を隔ててたった一人で見つめるボーレガードのシーンはとても印象的で画になる。

最後に音楽。明るいノーボディのテーマ、勇壮なワイルド・バンチのテーマとそれぞれ特徴的なのだが、一番気に入ったのはボーレガードがノーボディに銃を向けるシーンで流れる曲。雰囲気は「ウエスタン」におけるハーモニカとフランクの決闘のテーマの自己模倣っぽいが、時計の秒の音やメイン部分で入ってくるギターやブラス&コーラスは緊迫感に満ちており、ボーレガードの凄みのようなものが感じられる。

表層的な話の「裏の部分」で魅せる映画。隠された意味などを考えていくと、人や時期によって解釈が変わりそうだなあと思った。もちろんノーボディのコミカルなアクションシーンなど、そのまま見ても工夫が凝らされており面白い。流石「最後のマカロニ・ウエスタン」と呼ばれるだけある。