映画ネタバレ考察:「エターナルズ」

前回「エターナルズ」について感想を書いたが、それを掲載した後もモヤモヤを払拭できなかったので、今回は引き続き「エターナルズ」について、ネタバレを含めて語ってみたいと思う。一応書いておくと、本作には面白い部分や見所が確かにあり、そこについての意識は今も変わっていない。ただモヤモヤのせいで良い点まで霞んでいくのが嫌なので、しっかり紐解いて言葉にしておきたいという趣旨である。
いつもはネタバレしないようにぼやかして書くので具体的なレベルでの指摘はしないのだけど、思いっきりそれを含めた分析をしてみようという試みでもある。なのでこれから本作を観る予定がある人は、ここいらでやめておいて他の感想記事でも見てくださるとありがたいです(露骨な誘導)。

まず、先に良かった点を挙げておく。前回の記事と同じ内容になってしまうが、やはり10人のメインキャラクターが動いている点だろう。全員ニューフェイスのキャラクターたちで、最初は誰が誰やらの状態だが、それぞれ能力を駆使した見せ場があり、各々の性格、思想などの違いがあり、だんだんその違いが顕になる作りになっている。役割を細かく分解し、不必要なキャラクターが出ないような配慮もうかがえるが、この「大人数チーム」であることが売りなので、それを活かす構成や描き方をしているといえる。人種が様々なのも、宇宙人の感覚でいえばどこかので固定する必要もないので、そうなっていても別に違和感はなかった。彼ら(エターナルズ)を元に、実際の古代神話が作り出されたことになっているのも面白い設定だと思う。
また、各キャラクターの能力の中にはかなりインフレ気味なものもあるのだが、それでも能力の魅力を削がずに活躍させている点は巧いと思った。特に何でも発明してしまうファストスや、人間の精神操作を行うドルイグ、幻を作り出すスプライトなど、能力的にはサポート寄りだが用途をそれに限定せず攻撃や防御など幅広く使っているのもよかった。

さて、ここからは記事冒頭で書いたように物語のネタバレを含んだ内容になるのだが、キーワードは前回の感想で触れた「お利口」さにあると思う。正直、先週時点ではそう感じつつもはっきりと何がそうさせているのかを最後まで具体化していなかったが、「お利口」だと思った理由は「誰も悪くない」物語になっているからだと、今は考えている。
この作品のヒーロー映画に足りない要素のひとつに「悪の不在」がある。本作にはディヴィアンツという敵がいるが、これはほぼ知性のないモンスターでしかなくその目的も己の生存ただ一点のみ。しかも後述するが、ちゃんと生まれた理由もある。他に悪人らしい悪人もいない。では物語として、一体何が立ちはだかるのか?

物語の途中、エターナルズのセルシは自分たちを導く第一天界人アリシェムから、それまで告げられてこなかった真実を聞かされる。アリシェムの目的は「宇宙のサイクル」の維持であり、繁栄した地球人のエネルギーを糧に、新たな天界人を誕生させることだった。誕生の際、タマゴの殻を破って雛が出るように、地球は内部から破壊され崩壊するというのだ。生まれた天界人によって新しい銀河系を作り出す。何でも10億年ごとにこの破壊と創造のサイクルが行われており、これを止めれば宇宙はいずれ全滅するだろう、というのがアリシェムの理屈である。
地球人としてはNOを突きつけるしかないが、地球にも自然のサイクルがあるように、宇宙のサイクルもそれ自体は否定しづらい。厄介なのは神に等しい存在がそれを掲げる点だろう。宇宙の創造主たるアリシェムの存在とスケール(地球の直径よりでかい)は無機質なロボットのようで、エターナルズの面々の個が浮かび上がってくるのと対照的にとことん個性や感情といったものが排除されて描かれる。これが立場的には本作における「悪の理屈」にあたるのだが、主張それ自体もそれを提唱し実行する存在のどちらも隙がなく一概に「悪」とは呼べないものになっている。
また、そうした目的とあわせてエターナルズ、そして彼らが戦うべき相手であるディヴィアンツの両者が、同じアリシェムに作られた存在であることが語られる。最初に作られたのはディヴィアンツで、人間のような知的生命体を捕食する存在を排除し、知的生命体の繁栄を促すのが目的だった。しかし、捕食種を捕食したディヴィアンツ自身が進化し、知的生命体を狩る捕食種になってしまったのだという。そのためアリシェムが次に作ったのが進化しない種族、つまりエターナルズなのだ。
エターナルズは知的生命体を守る側として設計され、彼らの繁栄とその最期を見届けた後は記憶を消去され、また別の知的生命体がいる星へ送り込まれる。地球人を守っていたはずが地球滅亡の手助けをしていた、アリシェムに選ばれた不滅の戦士だと思っていたのに、単なる人形でしかなかった――というダブルパンチが本作最大の転換点である。このあと、エターナルズは地球を助けようという側と、エターナルズ本来の役割を果たそうという側に分かれて戦うことになり、物語は最終局面へと向かう。

アリシェム側についたエターナルズも、決定的な悪とは呼び難い。彼らからすれば、地球を救おうとするエターナルズは裏切り者にほかならないからだ。エターナルズの多様な人種や個性が、マイノリティを象徴しているのは明らかである。そして本作は、その中で本当に誰も悪くならないように作られている。最後の戦いに参加しないことを選んだキンゴでさえ、その後しれっと登場し受け入れられているのだ。強いていえばアリシェムが該当するかもしれないが、あの宇宙や銀河そのものを俯瞰する存在はキャラクターですらなく「理屈そのもの」のように思う。そんな「理屈」すら否定せず阻止するべき対象にした、本作の怒涛ともいうべき全方位への「配慮」はある種の潔癖性すら感じさせるし、その理念こそがエターナルズ全員を可能な限り平等に活躍させている点にもつながっている気がする。
最終戦において、アリシェム側についたエターナルズと地球を救う側についたエターナルズの明暗を分けたのは、「誰かと関係性を気づけているか」という点である。それが叶わなかったスプライト、それを忘れていたイカリスの2人は、アリシェムの戦士として役割を果たすことを選んだ。イカリスがセルシを止めようとしたときにそれまで恋人として過ごした時期を思い出し手が出せなかったことからも、そこに強いメッセージがあるように思える。
美しい話のようにも思えるが、彼らの立場上どんな大義を抱えても「神の道具からの脱却」という側面が強く出てしまっている点は否めない。自己の存在意義を勝ち取ろうとすること自体はテーマとして用いられるが、結果的に地球を救うことになっただけで、結局は彼ら自身を救済する戦いでしかなかったような印象が拭えない。
もう一点。劇中でエターナルズの一人のドルイグが「暴力性や欲望をなくしたら、それは人間じゃない」と語るシーンがある(実は物語中こいつが最も人間臭い)。大半のエターナルズは個性的ではあるものの、ドルイグがあげた人間的らしい負の部分は強調されないか、持ち合わせてすらいない(アリシェム側についたイカリスもスプライトも、その動機は純粋さである)。そしてほとんどの地球人をモブのようにしか描かず、最終局面にも人間は登場しない。そうした配置から、彼ら「汚れのない美化された」エターナルズを強引に人間として見せようとしていると感じずにはいられなかった。

「エターナルズ」は従来の「超人が圧倒的な強さとかっこよさで悪党をぶっ潰す」というヒーロー映画とまったくアプローチが異なっている。エターナルズは全員が善人として描かれているし、悪党の扱いもそれ自体がいないので文句をつけられることもない。「誰も傷つかない笑い」というワードが一時期取り沙汰されたが、本作はそれの映画版といえなくもない。そんなどこかの誰かにとって有害なものを徹底的に排除した本作は「誰も傷つけない映画」のモデルケースのひとつになったのではないかと思う。そこにポール・バーホーベンのような皮肉はない。それくらい本作は「お利口」を貫いている。
長くなったが、これらが自分の感じたモヤモヤの正体だと思う。

画像:© 2021 Marvel