映画感想「情無用のコルト」

1965年制作のマカロニ・ウエスタン。主演スティーブン・フォーサイス、監督はジャンニ・グリマルディ。
セルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」がアメリカでヒットを飛ばし、世界的マカロニ・ブームが到来したのが1967年ということなので、本作は黎明期の作品ということになる。そのせいなのだろうか、ダークともコミカルとも違う、良い意味でマカロニらしくない内容になっている。

オープニングのクレジットではテーマソングとともに止め絵の紙芝居が始まり、渋い声で「この手で触れたいのは鍬の木の温もり。穀物の荒い穂。女の滑らかな髪。だが殺し屋には許されない」といった語りが差し込まれる。この言葉はそのまま、次に登場するキャラクターの主張そのものに重なるようになっている。
それが終わると、からっとした荒野の向こうから、馬に乗った二人の男が近づいてくるシーンに切り替わる。一人は主役である若きガンマン、スティーブ。そしてもうひとりはベテランガンマンのデューク。明確な言及こそないが、彼らは相棒同士であり師弟関係にあるようである。
スティーブは「この仕事が終わったら、どこかで土地と家族を持って平穏に暮らすんだ」というが、デュークは「それは無理だ。俺たちは銃に縛られている。一度銃を握れば一生だ」と答える。デューク自身もガンマンの身でありながら家庭を築いたが、彼を殺しに来た相手の銃弾で奥さんを亡くしていた。「殺し屋は一生幸せになれない」と、まさにオープニングの語りと似たようなことを言って彼を諭すのだが、「運に賭けるさ」とスティーブは気持ちを曲げない。まっすぐ前を見続ける様子が、決意の強さを感じさせる。デュークは説得を諦め、「まあ、幸運を祈る。ただしスーザンだけはやめろ。彼女を失ってお前を殺したくない」と釘を刺す。スーザンとはデュークの一人娘であり、スティーブと彼女は好き合った仲なのだった。

人生の先輩で師匠であるデュークは茶毛の馬、頑固で初々しい弟子スティーブは白馬。
老練のベテランと何も知らない若者の対比がいい感じ。

二人は向かった先の町で「仕事」に取り掛かる。その町はたびたびならず者集団の被害に悩まされており、二人は報酬を受け取り用心棒として彼らと戦うのだった。やってきたならず者たちをデュークたちは奇襲によって一網打尽にするのだが、スティーブが倒しそこねた男が最後のあがきでデュークを銃撃。彼は死にこそしなかったが、肩に重傷を追う。「俺の分の報酬はスーザンに渡してくれ。それと、もし彼女を連れて行ったら俺はお前を殺す」と、デュークは本気で警告するが、スティーブはデュークの取り分を彼と親しい娼婦に預け、自分はスーザンを連れて新天地を目指す……。

といった感じで、本作は師弟ものと駆け落ちものをかけ合わせたような作品となっている。
冒頭の「殺し屋は幸せになれない」という訓示があるためか、スティーブとスーザンの身にちょっとした危険が起こるだけでなかなかハラハラさせてくれる。スーザンはこれから自分たちがどうなるか、何より父が二人の仲を認めるかを心配している。そんな彼女に「彼も孫ができたら怒りもおさまるさ」とスティーブは気休めを言うものの、どこか緊張を帯びた顔立ちはやはり不安な様子を漂わせている。
そして案の定、娼婦からスティーブがスーザンを連れて出ていったことを聞かされたデュークは怒り心頭に。ここで娼婦が金をもらったことを黙っているため、彼にとってスティーブは金も娘も奪ったということになってしまうのだが、話の流れからして怒りはもっぱら娘を連れて行ったことで占められているように見える。

デュークの警告に逆らい、スティーブは彼の娘と添い遂げようとする。
果たしてうまくいくのだろうか。

その後、物語は新天地で農場を手に入れ生活しようとするスティーブを中心に進んでいくのだが、そんな中でもデュークの存在感はかなり強く影を残す。
そもそもデュークは序盤からかなりキャラクター性が強調されていた。撃たれたその場に獣医しかいなかったときに「人間も動物みたいなもんだ。やってくれ」と頼み、さらに銃弾を体から摘出するときも「麻酔はいらない。痛みを感じたい」とまで言い出す。痛みを感じたいという台詞だけだと変態の人のようにも聞こえてしまうが、冒頭での説教臭い感じを踏まえてみると、自身が歩んできた殺し屋としての人生を相当悔いているがゆえの自罰的行為なのだということがうかがえる。
スティーブに口酸っぱく「スーザンはやめろ」というのも、自分と同じ人生を歩ませたくないのと同時に、自分がやったように「銃に縛られた男」の巻き添えで娘を失いたくないという、人生の先輩として、そして父親としての両面が合わさったものであり、心理としては充分納得できる。

そしてそういった事情をさんざん聞かされながらもスーザンへの想いを諦めきれず「そんなのやってみないとわからない」と師の警告を無視するスティーブの行動も実に青春真っ只中の若者らしい。それでも新天地で新しい農場を手に入れたとき、彼はデュークの「銃からは逃れられない」という言葉に反発するように、自分の銃をホルスターごと地面に埋めている。このときスティーブは土地を巡って新たな敵と戦っている最中であり、現実的な判断とは言い難いのだが、それだけデュークの言葉をちゃんと胸に刻んでいるともいえる。いうことを聞かない弟子であっても、いうことを聞かないなりに師匠に認められたいのだ。きわめて天邪鬼的だが、こちらもわりと心情として理解できてしまう。

こうして物語は、新天地で登場する新たな敵とスティーブ、そして傷が癒え彼を追って現れたデュークも合流し佳境に突入する。預かった金をくすねた娼婦も自らの行いを隠蔽しようとして物語に絡んでくるのだが、その欲塗れの動機が、スティーブとデュークの師弟や相棒、あるいは娘婿と娘の父親が戦う理由をより際立たせているように思う。

というわけで、全体的にアクションよりドラマ主体の作品。スティーブがスーザンへの愛を貫くみたいな話というより、スティーブ自身の独り立ちやいわゆる父殺し(あるいは父親超え)の話としての側面が強い。他のマカロニ・ウエスタン作品に比べて派手さや外連味は薄めになっているが、その分現実味あるガンファイトも悪くない。物語の最後にスティーブ、デュークが取ったそれぞれの行動は、邦題になっている「情無用」の逆ともいうべきでよかった。

画像:© 1965 Ultra Film