映画感想「透明人間」

2020年のホラー・サスペンス映画。リー・ワネル監督作品。主演エリザベス・モス。Amazon Prime Videoで視聴。
透明人間は読んで字のごとく、姿が透明で見えない怪人であり、誰に気づかれることもなく好き勝手に振る舞うことができる存在のことである。人間のあこがれや妄想を体現しているのか、透明人間、あるいは透明能力というのは後のいろいろな創作作品、また現実の科学研究にまで影響を与えている。多くの人が、一度は「姿が見えなくなったら」と夢想したことがあるのではないだろうか。
その透明人間のイメージを形作ったのは「SFの父」と呼ばれる作家H・G・ウェルズが1897年に書いた小説「透明人間」だと思う。何度か映画化されており、今回の「透明人間」も設定やストーリーは別物だがその系譜に含まれるといえる。

物語は、主人公セシリアが夜中にこっそり身支度をして夜逃げを決行するシーンから始まる。
夫エイドリアンは若くして成功した科学者だが、完璧主義者で彼女を自分の思い通りにしようとし、歯向かおうものなら暴力を振るって従わせてきた。妹の協力もあって家出は辛くも成功し、セシリアは妹の友人で警官のジェームズの家に匿われていたが、彼女は夫が自分を連れ戻しにくるのではと怯え、外に出られなくなっていた。
そんな折、エイドリアンが自殺したことが告げられる。もう彼の影に怯えることはない。セシリアは心機一転新しい生活を始めようとするのだが、そのときから彼女は周りに誰もいないのに見つめられているような視線を感じ始め、同時に身の回りで不可解な出来事が起こり始める……というもの。

ストーリーだけ見ても、原作とはまったくの別物になっていようと「そりゃあ透明人間の仕業なんでしょうよ」というのは明らかである。使い古されたネタなだけに、透明な人間と聞いてもそれ自体は怖くはない。
それは制作側もわかっており、本作はその上で現代的な物語に置き換えられている。本作では、ストーリーの序盤で、科学者であった夫エイドリアンの専門分野が光学技術だと明かされる。それはつまり、物語として透明人間になれる「理由」はさほど重要ではないのである。

自宅の研究室にある、意味深な装置。
真ん中にちょうど人間が立てそうなくらいの空間があるが……。

自分がちょっと目を離した隙に、台所が火事になり、悪口メールを勝手に送られ、面接のために用意したポートフォリオがなくなり、他人と二人きりのとき相手が見えないなにかに殴られる……。社会的には死んでいる男が、透明になって生きていて自分に嫌がらせをしてくる――「自分ではない」と訴えても、誰もわかってくれない。そしてその主張は通らないだろうと、全てを理解している視聴者も思ってしまう。事実を訴えても誰も信用してくれないのは恐怖であり、人の信用は誰かの悪意で簡単に失われてしまうのだ。
どちらかというと、本作はホラーではなくサスペンスである。精神的、社会的に追い詰められていくセシリア、そして、彼女を諦めきれずに透明人間と化した夫の姿は、歪んだ愛情で女性につきまとう「姿の見えないストーカー男」をそのまま体現したともいえる。

自分がしていないことを自分のせいにされ、孤立していくセシリア。
家の中にいる犯人を探し始めるが、傍目には奇行にすら見えるのがこの作品のキモだろう。

個人的に良いと思ったシーンは、冒頭の脱出シーン。
本作では、セシリアは夫から暴力を受けほとんど所有物のように扱われていたと語るが、実際にそのようにされていたシーン自体は描かれない。海沿いの広い土地に建てられた彼の大豪邸は富の象徴のようにも見えるが、あちこちに仕掛けられた監視カメラや敷地を囲う高い塀は、彼女の目線を借りてみると監獄そのものである。このロケーションと、冒頭で垣間見える彼女の様子を見れば、彼女がどういうふうに扱われていたかを容易に想像できるというわけだ。

そして映画のラストもなかなか皮肉の利いた終わり方。痛快なようにも見え、目的のために手段を選ばなかった夫の狂気が、まるで他者に乗り移ったようにも見える。ここで初めて、誰にも見えずやりたい放題できるという、透明人間に対する新たな別の恐怖が湧き上がってくるのだ。というわけで、古典的なネタながら新鮮な恐怖としてまとまっており、テーマともに現代の映画になっている作品。序盤が少し長く感じるが、エンジンがかかると目が離せなくなる。

画像:© 2020 Universal Studio

Amazon Prime Video
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