映画感想「殺しが静かにやって来る」

1968年のマカロニ・ウエスタン。「続・荒野の用心棒(Django)」のセルジオ・コルブッチ監督作品。
若き殺し屋サイレンスをジャン・ルイ・トランティニャンが、狡猾な賞金稼ぎロコをクラウス・キンスキーがそれぞれ演じる。音楽はエンニオ・モリコーネ。
ラストが衝撃的、という触れ込みで有名な、カルト的人気の作品でもある。

舞台となるのは荒野ではなく、ユタ州の雪に覆われた寒村。土地の名前もスノーヒル郡。雪原の寒々しさに相応しい、荒涼とした印象のモリコーネのテーマソングが印象的である。
この土地は悪徳判事で銀行家のポリカットに支配されている。彼は気に入らない労働者から仕事を奪ってやむなく犯罪に手を染めさせ、それに賞金を懸けて賞金稼ぎに始末させる、という鬼畜な方法で町を牛耳っていた。賞金首になってしまった人たちは町にいられず雪山に逃げ込み、野盗に身をやつしながら寒さと飢えを凌いでいる。そして町にはロコをはじめとする賞金稼ぎたちが居座って、彼らが寒さに耐えられずに戻ってくるのを待ち構えている……といういきなりハードな状況。
劇中の言葉でいう「人間狩り」が平然と行われている世界なのだ。

そんな舞台となるスノーヒルに、2人の男がやってくることになる。
1人はサイレンスという殺し屋。ロコに旦那を殺された奥さんからの依頼を受けてやってきた。
そしてもうひとりは、新しくスノーヒル郡の保安官に任命された元軍人の男。劇中は保安官と呼ばれる。
2人は偶然にも駅馬車に乗り合わせ、さらにそこにロコが乗り合わせる。物語のメインの2人+1が一堂に会するのだ。この後町についたサイレンスは、依頼主の奥さんから夫の仇を討って欲しいとロコ殺害の依頼を受けることになるが、まだこの時点ではそのことを知らない。顔だけ合わせておくという巧い展開である。
映画は、このサイレンスとロコの戦いの行方を追っていく形になる。

この映画はとにかく、サイレンスとロコという二人のキャラクター設定が秀逸である。
サイレンスはまだ若い青年で、賞金稼ぎをターゲットにする専門の殺し屋。早撃ちが得意で、相手を挑発して先に銃を抜かせ、正当防衛にしてから撃ち殺すというけっこう無茶苦茶なスタイルを得意とする。相手が命乞いをした場合は、利き腕の親指を撃ち抜き二度と銃が撃てないようにする。
彼が扱う銃はコルト・シングル・アクション・アーミーといった西部劇お決まりのリボルバーではなく、モーゼルC96というドイツ製自動拳銃。一応時代設定は1898年となっており、この自動拳銃が存在してもおかしくはないようになっている。装弾数が多く、多人数を相手にした早撃ちでも撃ち負けることなく一瞬で皆殺しにするシーンは格好良い(10発ほど撃っている)。
さらにサイレンス(沈黙)という通り、彼は言葉を発さない。彼の喉には深い切り傷があり、しゃべることができないのだ。理不尽にも愛する者を失った人々の頼みを無言で聞き入れその仇を討つ、ヒーローでありアウトローである。
対する賞金稼ぎのロコは、まさに冷酷非道といった言葉がよく似合う男。痩せ型で特に高身長というわけでもなく、低くドスの利いた声でもないというどこか小物感が漂うが、非常に狡猾で機転が利く。そしてそれ以上に、演じるクラウス・キンスキーのギョロッとした目つきや薄ら笑いといった演技で、只者でない感が溢れているのだ。
それは彼の殺しのやり口にも現れている。嘘や卑劣な手段をいとわず、賞金首の事情を知りながらそれを殺すことについて良心の呵責など1ミリも感じさせない。サイレンスや保安官と乗り合わせたとき、ロコは町につながる道中のあちこちで殺した賞金首の遺体を雪に埋めておき(ちなみにこれは伏線になる)、それを駅馬車に乗りながら回収していく。
駅馬車は今でいう定期運行のバスのようなもの。雪山の途中で「ちょっと止めて。『荷物』を回収したい」と埋めた死体を掘り起こしにいく様子はなかなかシュールであり、同時に人を荷物という態度に薄ら寒さすら感じる。どこからどう見ても悪人であり、人の心がないようにしか思えないのだが、ここまでゲスだといっそ清々しい。
もうひとりの駅馬車に乗り合わせた保安官は、二人に比べると脇役的なポジション。しかしポリカットや賞金稼ぎ相手にも怯まず、法と良識を重んじる常識人の好漢である。

サイレンスが依頼を受けたことは、すぐポリカットを通してロコの耳にも伝わる。
ロコはサイレンスのやり口を知っており、狙われているとわかっても「あいつの銃は俺より早い。だから俺は絶対にあいつより先に銃は抜かない」と挑戦を受ける気でいる。「絶対先に銃を抜かせる男」と「絶対に先に銃を抜かない男」の戦いというだけでどっちが勝つのか気になるところだが、この大勝負が行われるのは中盤。この勝負の結末を受けての終盤、映画は予想だにしない展開を迎える。メインとなるのはロコであり、そこから衝撃的なラストに繋がっていくのだ。

自分を殺しにきたサイレンスを前に、へらへらと笑うロコ。さあ、どうなる。

詳細は実際にご覧いただくか自己責任で調べていただきたいが、やはり素直に呑み込みにくい終わり方。しかし今回改めて見直してみて、一つ気づいたことがあった。どちらかというと、映画の冒頭は、物言わぬ早撃ちガンマンであるサイレンスはどちらかというとヒーローというよりは機械っぽく「人間らしさ」はそれほど感じられない。言い訳がましく饒舌なロコの方が、人でなしでありながらも、まだ多少は人間らしく見えるほどだ。
ところが、途中からそこが逆転する。無言の殺人マシーンだったサイレンスは、彼自身のバックボーンが明かされたり痛みに喘いだりと、急に人間として見えてくる。だが、ロコにはそれがない。むしろ、どんな状況でも余裕っぷりを崩さないところが、いっそう不気味に見えてくる。中盤の勝負以降サイレンスは人間に、ロコは非人間に思えてくるのだ。身に起こることもことごとく彼に味方をする。特に終盤のロコの佇まいはただ事ではなく、クラウス・キンスキーの怪演のおかげで人ならざる者のようにすら感じる。機械と人間の戦いだったはずが、自分には人間と悪魔の戦いに成り代わって見えた。

というわけで、強烈なキャラクターと、雪原、自動拳銃、とんでもラストと異色がごった返しな尖った作品。常識破りでありながら、流れる空気はマカロニらしいともいえる、とにかく強烈な一作でした。

画像:© 1968 Adelpha, Les Films Corona, Beta Film